2012年9月13日木曜日

Reading -flowers

今宵も冴える頭に読書を少し。

花についての一節。

名前をつけるという行為は愛情と関心と敬意のあらわれであり、また名前と実体とは切り離すことのむずかしい関係にあって、それが言語の本質のひとつをなしていはのは確かですが、目前の一輪の花の精妙な美しさに驚きと畏敬を感ずるとき、それに名前をつけるという行為が、どこか自然に対する冒涜とも思えることが私にはあります。際限もなく名づけることで人間は自然に、そして宇宙に秩序を発見し、ひいてはそれを支配しようとしてきたのですが、一方で名づけられぬもの、言語化できぬものに対する畏れも、常に私たちの心の底に隠れています。

花を感ずるには花という集合名詞だけで十分だというのは、星を感ずるのに天文学は要らないと思うのに似ています。、、、

愛情と感心と敬意の表れかぁ、。

そこんとこ、ちょっと欠如してるかも私。

日々つくるモデルは愛情のもとに生まれてくるけれど、その名前となるとね。。。

集合名詞に在る強いピースでありたいと願うばかりです。

筆者、〆に

ちなみに私の好みは派手な大輪の花よりも、小さい地味な花のほうに傾きます。そして切り花よりも野生の野花のほうに。


2012年9月10日月曜日

Reading

随分ご無沙汰でした。

やることが多すぎて、床についてもなかなか眠れず夜がふけていきます。

さて、今日の読書。

ゆとりとは。

ゆとりとはまず何よりも空間のことである。ラッシュアワーの満員電車のように、心がぎゅうぎゅうづめになっていてはゆとりはもてないだろう。心にぎゅうづめになっているものが何であるかは関係がない。それが欲であろうと、感情であろうと、思考であろうと、信仰であろうと、動かすことのできる空間が残っていなければ、息がつまる。そして動かずにこり固まってしまうと心はいきいきしない。他の心と交流できない。

とさ。

それから、

ゆとりは私たちの住む地球に対して、宇宙の真空にも似ていようか、それはまた私たちの生きる一生のつかの間に対して、永遠とも言えようか。自分を、自分の心を突き放し、相対化して見ることのできる視点、心の外のもうひとつの心。ユーモアと呼ばれる心の動きもまたそこに根を下ろしているように思われる。

なるほど。。。